y




昭和四十九年四月十六日 春季大祭の教話


 皆さんおめでとうございます。おかげを頂きまして、春の御大祭もこのような形で奉仕をさせて頂くことが出来ました。只今、若先生がご挨拶を申しております中に、「これから親先生の心の正体についてお話を頂く」と言ってましたけど、心の正体というものが話し得るか、表現できるか判りませんけれども、まあしばらくお聞きを頂きたいと思います。
 私は、一言で言うと、自分の心、または自分の肉体、または自分の周辺に、自分の心の姿というものは現われるものだ。これが心の実証だと思うんです。どんなに、例えば、私の心が和らいでおる、喜び一杯であると言うても、それにおかげが伴うていなかったとするなら、その心は私はおかしいと思わなければいけないと思うですね。「おかげのあるもなきもわが心」とおっしゃった。「一心に頼めおかげは和賀心にあり」とおっしゃる。一心に和賀心を以て、和らぎ喜ぶ心を以て、おすがりをし、お願いをさして頂いて、そこから、その和賀心の程度程度に応じて形が色々な姿になって現われてくる。
 よく子供は親の鏡だというふうに言われますけれども、まったくそうだと思います。子供の姿を見りゃ、親が判る。ですから、心の言わば実態というものは、それを取り出して判ってもらうわけには参りませんけれども、その周辺に現われてくる事柄、いわゆる、そのおかげの世界が、どの程度のおかげの世界に住んでおるかということだと私は思うんです。
 今朝からの御理解の中にも、商いをするなら売場買場というて仕込むところを、または、言うなら売る事買う事その両方を大事にしなければならない。という意味の御教えを下さってあります。
「十銭の物を八銭で売る。目先は二銭損のようであっても、数が売れるからその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くが良い」と教えておられます。ところが実に難しいことなんです。十銭の物を八銭で売る。目先は二銭損のようだけれども、数が売れるからその方が得じゃと言う。私は、「その方が得だ」と言うことを今日は聞いて頂いた。その方がましだということ。その方が得だと。皆その得の方がいいです。
 今朝からも、お話の中に、私の修行時代のお話をさせて頂いたんですけれども、丁度、親教会の御大祭ともなると、福岡の方から二日ぐらい前に御用がございますから帰って参ります。その頃はもういよいよ逼迫しておりましたので、家内も子供も椛目の方へ、私の実家の方へ帰しております。それで、自分一人であちらへ残っての修行の時代でございます。
 私は御大祭の時には必ず御祭典費というお供えをさしてもらう。おかげを頂いてお繰り合わせを頂きまして、御祭典費のお繰り合わせはお願いしとる通りに頂いた。ところが、それこそ年に一回と言われるお祭、春の御大祭が一回、秋の大祭が一回というようにです
。春の大祭なら春の大祭は一回なんです。その一回の御大祭に、このようなおかげを頂いておって、この度ばかりはどうにもしようがない。御祭典費のおかげは頂いたけれども、お供えがない。まあ神様はこういう状態のことはご承知だからまあ仕方がないと言うても、まあ何とも淋しい思いで、丁度、福岡の西鉄の電車の切符切り場のところでザーッと一列で皆並んで時間を待っておりました。
 とにかくもう、淋しい。御大祭にお供え一つ出来てない。神様に、私は心中祈念をさして頂いておりましたら、丁度家内の方から、あの時分は遅配欠配で、大変食糧事情の悪い時分でございますから、親の元で配給を頂いておる。それに私子供が、言わばお世話になっておるだけではどうも心苦しい。だから、少しでも良いから食物を持って帰って来てくれ。お米でも良い。メリケン粉でも良い。と言う便りが来ておりました。それで私は、有金を叩いて、取れれるだけの配給、丁度メリケン粉が、あの時分のメリケン粉と言やあ、もうそれこそ茶褐色のような、真っ黒いメリケン粉でしたが、一俵だけ入手することが出来た。それを持って椛目の方へ帰り、そのまま親教会の御大祭の御用を頂こうと思うておりました。
 ですから、ここに足元のところにそのメリケン粉を置いてある。御大祭というのにお供え物一つない。そりゃ御祭典費はお供えしたものの、お供えも出来ないということは淋しいことだなあ、残念なことだなあと思わせて頂いたら、神様が、その頃色々お知らせを頂いておりましたから、丁度足元においてあるそのメリケン粉を指差して、「そこにあるじゃないか」と言わんばかりに教えて下さる。時に、私の心の中に、ああここにあったと思うた。そうだ、これをこの度の御大祭のお供えにさして頂こうと決心致しました。

 そしたら、神様からまたお知らせを頂いた。『丁度、めんどりが何匹かのひよこが、餌を探してるんですけれども、その餌がない。そしてパタパタとこう倒れて行く姿』を頂いた。家内が待ってる。子供が待ってる。この餌のようなもの、餌というのは食物のことです。それをお前はお供えすると言いよるが、今このように子供たちがバタバタ倒れる、餌がつれするようなことになってもいいのかということを頂きました。
 けれども、私の腹はもう決まっておる。その時に申しました。「神様、言うならば、この命というものは神様がお作り下さったもの。神様がお与え下さらなければ出来ないのです。けれども私にとっては、年に一回の御大祭、それにお供えも出来ないと思うておったけれども、只今神様から、お気付けを頂いて、ここにあるじゃないかと言われてみれば成程あるんだ。これは子供が食べるのです。これは家内が食べるのですと言うことはない。これをお供えの印にさせて頂こうと腹を決めましたから、どうぞ家内のことは、子供のことはよろしくお願いします」もうそこには餌がつれしようがどうしようが、もうあなたにお任せするという腹が出来た。
 そしたら次の瞬間に、『もう広い広い湖』を頂きました。そして『小さい水鳥が餌を求めて行ってますけども、餌がないかなんか淋しい感じでこうバラバラに散って行くところを頂いた。そういう後に、もうそれこそその鳥の何十倍もあろうというような大きな水鳥が、口に魚のようなものをくわえて、その散って行った水鳥の子供の後を矢を射るような勢いで、追い掛けて行くところ』を頂きました。
 おかげで無事に御大祭も済んだ。お供えも出来た。そして、翌日のまた後片付け等の御用を頂いてから帰らして頂いた。福岡に帰らせて頂きまたら、その当時私一人ですから、家はもう閉めてる。ところが、家の前に一台の自転車が置いてあるんです。しかもその自転車に、メリケン粉が一俵積んである。私はその頃は商売を止めておりましたけれども、中国人の方にお商売のお世話をさして頂いておった。ちょっとした。その方が、お礼に見えとるけれども、だれもいないもんだから、家をグルグル回って、どこか入るところはなかろうかと探しておられるところだった。それに私が帰りましたから、丁度良かった。「先日から、あれは儲かった。だからこれはほんのお礼の印だから」と言うて、メリケン粉を一俵持って来た。皆さんもご承知のように、あの時分は、進駐軍とか韓国人の方達に対するメリケン粉は、アメリカの真っ白いメリケン粉でした。私共が配給で頂いておるのは、もうザクザクするような真っ黒いメリケン粉です。
 みなさんどうでしょう。真っ黒いメリケン粉と真っ白いそれこそメリケン粉とどちらがいい。私は「それの方が得じゃ」ということなんです。それの方が得ということはです。ただ黒いメリケン粉がおかげを頂いて真っ白いメリケン粉になったというおかげだけではなくです。そういう生き方が私は徳を受ける道だというふうに思うのです。
 今度の試験のシーズンになりましてから、たくさんの方の御取次を、高校または大学の御取次をさせて頂いた。去年も出来なかった。また今年も出来んならどうするだろうかという人たちもいくらもありました。そこで日頃頂いておる信心がね甦ってきた。
 またそういう意味の確か御理解も皆さんに聞いて頂いた。「人頼みをするな」。例えば裏口入学というようなものがあります。たくさん。有名校などになりますと、もう一千万からも積まなきゃならないと。それをね、まあ子供可愛さに金は沢山、例えばなかっても、借金してからでもそう致します。それでもやはり通らない。どうしてというわけにはいけんのです。段々信心をさしてもらい。段々判らして頂いたら、もう人には頼らん、人にはすがらんという気持ちにお互いがなってきた。今度はそういう特別なケースの方が幾人もありました。そして言うならば、それを裏口の方で使っておったお金を、そのままお供えさせて頂くというような生き方。
 私は、ある方の、もう今年はもうそれこそ、その方、ある方からね「とにかく○○さん、一心を出さなきゃいけんですよ」と言われた。「一心を出さなきゃおかげを受けられませんよ。去年辺りの場合はあなた、二心にも三心にもなった。あの人にも頼まにゃん、この人にも頼まにゃん、そして親先生の御取次も頂くというようなことではいけませんよ。一心を出さなきゃ。何事でも一心を立てるとおかげになると仰せられるのですから」というふうに聞かしてもろうた。成程と合点が行った。
 そこでその一心をです。例えばもし、入学が許されるなら、このくらいな金は使うてもよいという金をそのまま神様にお供えさして頂いた。私はそれを御取次さして頂いたら、丁度『台の上にそのお母さんが乗ってる。そして息子さんの頭に、こう月桂樹で作った王冠を頭の上に被せてやるところ』を頂いた。自分、人間の力ではどうにもならないけれども、この台そのものが、言うならば信心であり、御取次の働きだと私は思うた。息子の言わば頭上に栄冠が輝くな、おかげを頂くなと思うた。

 そしたら次に、『親子丼』を頂いた。ははあ、親子丼だから親子がままになると思うた。親の願いも叶やあ、子供の願いも叶う。有名校三校か四校か受けてましたが、全部通った。それこそ、どれにしようかと迷うぐらい。いわゆる子供の頭上に栄冠が輝いたわけであります。「その方が得じゃ」ということが判るでしょう皆さん。それはね十銭の物を二銭目先は損のようだけれども、二銭安うするとたくさん物が売れるからそれの方がましじゃ、得じゃ」と教えられても、なかなか商売人算盤を握ったが最後です。なかなか売れません。
 これはもう私自身のことですけれども、十銭のものはもう十一銭で売れるように、十二銭で売れるように、そしてその余分に売り上げたところだけはもうお供えさしてもらうというような生き方でね、結構何十年間という間おかげを頂いてきた。教祖様が教えて下さるそのことなんかは守ろうともしてなかった。お参りは一生懸命した。お願いすることお願いをした。そして、何かそのお役に立つとか、御用に立たしてもらいさえすりゃ有難い。十銭のものを十一銭、【 】酒屋を致しておりましたが、五円で一本の酒を売っておる時には売れなかった。たくさんの酒屋が出ておりましたから、それで私は五円五十銭に値段を変えた。そしたらその五円五十銭の方が売れ出した。はあおかげ頂いた。といったような考え方。信心しておかげを受けるというのは、自分がじっとして、「自分の体というものはちびれるものでないから、一生懸命働け」とおっしゃったり、「十銭の物は八銭で売れ、それの方がたくさん売れるからそれの方が得じゃ」と言われてもです。それが判っておっても、それを実行するということは実に難しい。私の商売人時代は、もうそれが全然出来てなかった。
 今頃私が、御教えを本当にこのようにして行じさして頂いて、お商売をさしてもらうなら、随分今頃は儲かっておっただろうと思う。これは難しいことです。けれども、段々信心の稽古をさせて頂いて、いよいよという時に一心を立てる稽古をする。それこそ思いが変わってくる。そこから、言うならば離れ業的な信心も出来る。また、ただもう奇跡と言うより他にない程しのおかげも頂けてくる。
 この先月の、二十五日が信心研修会がここであります。色々とお話が出ます。色々良いお話なさいます。さしてもろうたり、また聞かしてもろうた。最後にある方が、こういうことを言い出した。最近、お書物が出てる。その書物は、ヨーロッパの何とかという人の予言の本である。その人の書いておることを見るとです。「二十五年後にはこの地球は無くなる」というのです。「人類が破滅する」というのである。そんなばかげたことがあるもんか。私はそれを聞かせて頂いて、何か知らん胸騒ぎがする。動揺する。しかもその人が四百二十年前に予言しておる。それが四百年間余りというものは、その人の言ったことが的確に当ってきておる。日本の大東亜戦争で負けることも、広島・長崎に原子爆弾が落ちることも、予言してあった。恐るべきことだ。
 私はそれを聞かせて頂いて、もう丁度おしまいでしたから、すぐ御神前に出てから、そんなことがあるもんかと思いながらもです。心が騒ぎますから、神様にそのことを御取次さして頂いておりましたら、『人間が、自分で自分の首を絞めて行くようなことをするから』ということを頂いた。
 教祖様が、「今の世は知恵の世である。開けた開けたというけれ
ども、世の中が開けたのではない。めげて行くのぞ」とおっしゃっておられる。やっぱり予言をしておられる。その、もうめげてめげてめげ貫くところが、その予言者の言葉を借りると、二十五年後ということになる。それはお釈迦様も、またはキリスト様もそれを予言しておられる。ということだそうです。
 そこで私は思うた。そういう例えば予言ということは、これは前知らせである。天地がその人を通しての報せである。そこでです。私共がね、今のような人間の考え方とか生き方であっては、本当にそうなるかも判らないけれども、ここにお互いが気付かせて頂いて、自分で自分の首を括らんで済むような生き方がもしあるとするなら、そういう道を一つ体得することに精進さしてもらわなければならない。
 広島の佐藤という若い先生が、ここに修行に去年来ておりました。佐藤宿老の孫にあたる方。なかなかめいしんな方でした。もう本当に良い信心をしておりましたが、合楽におかげを頂きたいためにです。言うなら、学院でああいうビンとかね、ああいうもんが皆たくさん出てくる。それを全部もろうて、貯め集めて、そして合楽行きの汽車賃とお初穂と帰りの汽車賃が出来たから、お参りした。「ここでしばらく修行さしてくれ」と言うて、修行して帰った。その方が修行に来ましてから二日目か三日目でした。ここで皆と一緒に御祈念をさしてもらいよった。御祈念を終わったら、その方がもう大変なその感激で出てきました。只今こんなことがあり得るだろうか、ここの御広前が一杯ね、大きな字で「平和奈心」と書いてある、御神前に。しかも、その平和な心ということがどういうことだろうかと思うたら、それにタイトルがついとる。

 平和の「平」という字は、一を書いて、八、十と頂いた。「一」「八」「十」、一から広がりに広がる。プラスということ。
 「和」の心というのは、もうそれこそ鉄筋コンクリか何かが入っとるような、頑丈な「和」という字であった。叩いても崩れない。お道の信心でいう和賀心の「和」というのはそういうもんなんです。「はあ私の心は和賀心」と言いながら、それが何かの時には、もう崩れるようなものであっては、言わば、普通で言う「和」とは違う、教祖の神様がおっしゃる。おかげが伴うという「和」というのは、それこそ壊れないもの。そういう心を目指さなきゃならない。
 「奈」という字は、奈良の「奈」という字を頂いた。そしてそれに大きく示すと意味が書いてあった。大きく示すと書いてあるでしょ、奈良の奈という字は。
 「心」という字は、先程若先生が言ってました金光様のお書き下げの「心」のような、ああいうような「心」という字を、八の字ばかりで書いた「心」という字を頂かれた。点を打って八でしょう。あの点々を八の字でこう書いてある。もう広がりに広がって行くというのです。
 そういう例えば、生き方を身につけて行くということ。自分で自分の首を絞めるというのではなくて、それこそ、去年よりも今年、今年よりも来年というようにです。日勝り月勝りにおかげの頂けて行けれる道。そういう道はです。金光様の御信心を頂いておれば、誰しもが頂けるかというと、決してそういうわけには行きません。そういうおかげの頂けれるのは、いわゆる和賀心なのです。自分の心次第なんです。
 「天地は流行ることもない。だから、終わるということもない」と教祖はおっしゃっておられる。けれども、「地球は終わりもない」とか、「初めもない」とかというふうにおしゃっておられませんからね。ですから、まあ聞くところによりますと、地球のような、言わば、人間というですかね、言わば色々なものが生存しているといったような所が、まあだ宇宙にはいくらもあるそうです。もうそれこそ地球以上の、言わば世界がもう無数にあるということです。ですから、地球だけぐらいがです。例えばその予言者たちの言葉を借りるとです。例えばあっという間に地球が消えて無くなるというようなこともです。私はあるかもしれないとやっぱり思います。天地は悠久です。無限です。今日はそこをおっしゃっておられます。けども「地球は悠久だ」とか、「無限」とおっしゃってないのです。ですから、四百二十年も前に、人間がシャンとしなければ、言うならば、知恵の世で賢しゅうなるだけといったような生き方で、それこそ人間が月の世界にでも飛んで行けれる程しの、言うなら科学なら科学が進んだ、ですけれども、それでは人間が幸せになるということではない。
 最高の学問を身に付けた人たちが、「これは知恵やら学問やら技術というようなもので人間が幸せになるのではない。これは人間が幸せになるためには心だ」と言うふうに言い出したということです。だからその心ということが、ほんならどうあれば良いかと言うとです。教祖様が教えて下さる。天地書附にお示し下さってある、いわゆる和賀心なのです。生神金光大神 天地金乃神一心に願って 自分の心の中に和賀心が頂けれる願いを立てさせてもろうて、完璧ということは出来るはずはありませんけれども、一切がその和賀心を以てすることによって解決してくる。問題が問題でなくなってく
る。そういう道がです。私はいよいよ広がりに広がって行く道ではないかと。人間が人間の力でです。首を絞めて行くというような生き方ではない。
 先月末の御祈念の時にも、こんなことを頂いた。「人力を捨てて神力にすがれ 人力無限に湧く」という意味のことを頂いた。人力を捨てて、最後は無限に湧いてくるところの人力によるということ。いわゆる人力にはもう、言うならばギリギリの所ま出来てるんだと。だからその人力というもの、人間的な考え方というものを捨てなければならない。
 私は御心眼にそれを頂いたんです。そしたら、人力車ですね。人力車でもう一生懸命走って来る人がある。そしてその舵棒をポーンと捨てた。ははあこれは人力を捨てることだなあと思うた。その人力をです。言うなら我力なんです。その我力を捨てて、神力にすがるということ。
 皆さんご本部へお参りになりますと、教祖様の奥城に出られます。あの奥城に、あの諡号ですね、贈り名が教祖様の諡号は「人力威命(じんりきおどしのみこと)」とあります。人間の力を以てです。世の中をアッと言わせる程しのと言う意味でしょう。そりゃ勿論お隠れになって後にどなたかが贈られたでしょうけれども、神ながらなことだと思います。「人力威命」。「威」というのは、威嚇の「威」です。
 教祖様こそ、そりゃ人力の限りを尽くされて、そしてその人力を捨てられた。言うなら「神様の仰せ通りに仕ります」と言う生き方になられた。それは人が笑うても、そしっても、それを意図されなかった。そして神様の仰せには背かれんという生き方を打ち立てら
れた。そこから、言わば限りない人力、これが人のすること、言うことであろうかというようなことが現われてくるようになってきた。人間の力というものはもう限度がある、限りがあるのです。その限りがある力にすがっておる。
 そこでです。その限りある力にすがるのではなくてです。神力にすがらなければいけません。神力にすがるということは、神力に任せるということなのです。ここでは皆さんが「親先生任せ」とこう言う。そこには自分の我情我欲、自分の思いというものが捨ててある。そういう生き方がです。積もり積もってどういうことになるかというと、限りない人力、いわゆる世の中をアッと言わせる程しの「人力威命」と言う教祖様の贈り名にありますようなおかげ。「成程神様じゃなあ」「やっぱり金光様の信心じゃなあ」と言うようなおかげが展開してくる。その生き方には行き詰まりがない。人間の生き方には行き詰まりがある。「信心は大きな信心が良い」と仰せられますが、その大きな信心というのは、行き詰まりのないことだと。もうそこに行き詰まり、そこにつまずくというようなことのあろうはずはない。
 それはどういうことかと言うとです。それを皆神愛だと頂く。そういう教えを受けるからであります。それをここでは、「成行きを大事にする」とか全ての事柄に御の字を付けて御事柄として受けて行く」と言う生き方ですから、もう限りがない。「もうそげなことは困る」と言うふうには言わない。「それを有難く合掌して受けて行く」ということを教えられる。言うなら神様任せの生き方を。
 三代金光様が私に教えて下さっておる御教えの中にも「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになる」と仰せられますから。神様が氏子任せになって下さるということになったら、どのようなことになってくるか分からない。
 久留米の初代の石橋先生がおっしゃっておられたという言葉に、「人間の一握りというのはこれだけなんだけれど、神様の一握りというのは、もう無尽蔵だ。限りがない」と仰せられたそうです。先生はただ、そういう人力を捨てて、神力にすがり貫かれて、神様任せの生き方、在り方というものを生活の上に現わされて、そして限りないおかげのお徳の世界に住まわれた方だと私は思うです。
 だから、そういう在り方、そういう生き方があるんだと判らして頂き、気付かしてもろうて、そういう在り方をです。私共が歩かせて頂くということ。真の道はそういう道だと思う。それは家庭にあることですから、それは小学校時代もありましょう。中学、高校、大学というようにです。違いましょうけれども、それを一段一段進めて行く生き方を、私は信心生活だと思うし、またはそういう生き方をです。行き詰まりのない生き方だというふうに思うのです。
 先程も若先生が、「魂の云々」と言ってました。心があるのないの、魂があるのないの、言わば信心を頂きますと、いわゆる心の確認が出来てくる。言うならば、魂の、言わば清まりを願わせて頂くことが信心だと私は思います。魂が清まってくるところにです。今まで心配なよったところが、心配ならない。今までイライラしておったことが、イライラしなくなる。魂が清まると、今まで腹の立てておったことが腹が立たなくなってくる。あるものは有難い有難いという生き方。そういう生き方をです。本気で体得しよう。勉強させて頂こうということだと思うんです信心とは。
 十銭の物を八銭で売る。「その方が得じゃ」ということはです。
そういうことだと思う。限りないおかげの頂けれる、言わば道を目指す。限りないお恵みの、いわゆるご恩恵に浴して行けれる道がある。そういう道がです。例えて言うならば、生き残る人々にならせて頂けることだと思うのです。
 例えば二十年後に、例えばなら、予言者の言うとるようなことがあってもです。我情を言い我欲を言い、信心しとっても、ただおかげだけに終始しておって、自分の心が和賀心になって行くということを楽しみの信心ではない信心ではいけない。
 そういうことだと思う。限りないおかげの頂けれる、言わば道を目指す。限りないお恵みの、いわゆるご恩恵に浴して行けれる道がある。そういう道がです。例えて言うならば、生き残る人々にならせて頂けることだと思うのです。
 お釈迦さまが「仏教の信心しよる者は、その末法の世界から逃れられる」キリスト様もそうおっしゃった。「キリスト教の信心をしよる者だけは生き残ることが出来るんだ」と言うふうに説かれたということなんですけれども、私はキリスト教の信心をしておれば生き残れるということではない。同時に、金光様のご信心を頂いておれば良いということではない。金光様の信心の、言うなら教祖様の芯であるところ、中心であるところのです。実意丁寧神信心をさして頂いて、その実意丁寧神信心の焦点がです。言わば答えは「和賀心」と言う、有難いという心を、答えを出して行く生き方を身に付けて行くことであると思います。
 魂が清まって行く。もうそれは本当にね、本気で魂を清めようとするとね、神様が清まらなければおられないような事柄を以て清まらして下さる。言うならばそこにも砥石があり、ここにも磨き粉があるということなんです。それが楽しゅうなってくる。それが私は信心だと思う。
 私は、その話を聞いた時に、その明くる日申しました。よし例えばです。地球破滅をする、人類が破滅をするというようなことに例えばなってもです。魂の世界だけは破滅することはない。魂の世界だけは、破滅しないのだ。壊れないのだ。その魂の世界というものは、もう永劫のものなのだ。それこそ天地と共に極まりのないものなんだ。その魂の世界に、言わばあっという間に行ったと致しましても、そこでまあ仏教的に言うならばです。地獄で苦しみ貫かねばならない。極楽で楽しい毎日を送ることが出来るというようなです。私はおかげが受けられる。魂の世界だけは、よし例えば世界がいやこの地球が破滅しましても、人類が全部おしまいになりましても、魂の世界だけは破滅するということはないことを判らして頂いたら、これを本気で、魂をもっともっと大事に、清めて行かなければならないということになります。これは本当に魂の世界があるんですよ。
 先日ね、ここの御信者でそういうおもしろい話があるんです。もう安東さんと申しますけども、大変熱心で一家中で信心をなさいます。ところが最近家をね、大体福岡の方でしたけど、こちらに工場を持たれた。そこで工場の近所に家を借っておられたけれども、その家をどうしても明けなければいけない。やのすけいのすけ言われるけれども、なかなかあちらこちら探しますけれども、適当な家がない。
 そういうある日に、「どこどこにこういう家があるから見てみないか」と言うので、見に行かれたところが、それは鉄筋コンクリの建物で、庭もある。近所には川も流れてる。とても環境の良さそうな家があった。そこでそこを借ろうという段取になった。ところがその近所の方が大家さんのことを聞いたところが、「はああの家ども借りなさんな、あの家は幽霊の出るとですよ」と言う。もう何人の人が替わっても替わっても、その幽霊に苦しめられると言うわけなんです。
 だから、そのことを明くる朝参ってきてからお届けされました。「そりゃ安東さん良かったな。そりゃ違うごと、そげな家なら家賃も安かろう。しかもただんごとしてくらっしゃるに違いなかばい。もうそれに決めなさい」と私は申しました。「そりゃもう私はもうですけれども、主人が臆病ですから」ちゅう。「そんなら私が泊まりに行ってやろう。だから、それを買うなり、借りることにしなさい」と言うて腹を決めて帰った。ところが大家さんがおられない。
 色々尋ねたところが、熊本県の山鹿におられるということであった。そこでわざわざ山鹿まで行った。ところが、その家主さんのご本人が「あなた方あの家を借って下さるのは有難いけれども、話は聞いて見えましたか」と言われた。「ええ聞いてきました」「いや本当に出るとですよ」とおっしゃった。そしたら、安東さんが言うことが「私はそげん所が好いとります」ちゅうた。「そんならいっちょ借って下さい」と言うことで話がまとまった。私はそげなふうに言うたこと言うたもののほんなこつ幽霊どんが出る。またあそこば追い出されるようになると大変なことだと思うて、神様にお願いをさして頂いた。
 そしたらね、『私が洋服ダンスを開けて、洋服ダンスの中に服が一杯詰まっておる。それを私が力一杯にこう避けてから、もう一着の洋服をそこへ治めたところで、戸を閉めたところ』でお知らせが終わった。ははあやっぱりおるんだな。それこそ行き所がなしにおる魂がおるんだなと。もうその夜な夜なね、ここの胸を押さえにくる。そりゃもう、だからもう、ノイローゼのようになって皆が、そこを借った人たちは、家賃が安いからといって借っても出て行く。そういう家だ。
 それから向こうの方で、約束が出来ましたから、いよいよ中へ入って見えたら、またすぐ参って見えました。「先生、もう外見なとても素晴らしい家、中に入ってみたら、ほんなこと幽霊の出そうな家です」ということなんです。二階に二間あります。それが密室のごたる、一つの所しか入るところがない。そしてもう親先生、もう驚きますことにはね、屋上を昇って行き当りが白壁になっとる。その白壁に、何と丁度人間がこうやって長くなって寝ておるような姿がね、壁の中にある。そりゃ勿論、雨漏りかなんかで染みが出来てきた。
 ここで内田さんと言う人がおりますが、この人が新婚の時分にね、もう長く別れておった。長くおって、もうお父さんのことを一生懸命思わしてもらいよった。そしたらね、自分の着ておる布団のね、布団のカバーにね、はっきり人間の姿が三つ映っとる。もうそれこそびっくりしてから、お母さんの所へ持って、それをここへ持ってきた。はあこれは、死霊じゃないから、生霊の形じゃないじゃろうか。私はそれをとっておる。
 そういうようなことを聞いておったもんですから、安東さんハシゴを昇ったそこにこうやって、丁度人間が横たわって寝ておるような姿を見てから、もうそれこそびっくりした。そこは確かにお父さん、先日のいつかの壮年部会の時にね、行って、成程見れば見るほど人間の姿だ。それで親先生、私ずーっとこうやって見よりました。ところがね、神様というお方は何という有難いお方であろうかと思うた。神様がこういう手の込んだ演出までして、いよいよもうすぐに家なしという時に、この家をお与え下さることの為に、神様がこういう幽霊屋敷、いやそこにそういうような言わば気持ちの悪いものがあるような家にして私共に与えて下さった。その後の安東さんの親子二人、今は子供さん三人ですが、もうそれは今度は入ってみてから、陰惨な、暗い言わば家だ。ところが今度は、戸を開けてしもうてからお掃除、こりゃもう信者さん方には「あなたも来て下さい」自分がやっぱ心細かったじゃろう、誰でんかれでん連れて行ってから、お掃除に行きなさった。そしてお掃除をしてしもうたところが、まあ何と素晴らしい家だろうかと言う家になった。
 それからね、これはとにかく、これはもう判らないのですけれども、もう大変賑やかな日々だと言うんです。感じが。お神様の奉斎もさしてもろうた。霊様もお祭りさしてもろうた。毎日毎日、信心の素晴らしさ、お父さんのところへ素晴らしいでしょうが。ずうっとその霊魂の姿が壁に現われておる。それは剥いでみたけれども、剥いでも剥いでも同じ模様が出てくる。「だからもういいじゃないか」と、「俺はそれを見ながらね、こういうふうに思う」と言うてお父さんが言われたということをです。その時に体験発表しておられました。お父さんが。そして、成程神様の素晴らしい演出であると言うふうに頂けれるようになられた。もう見れば見るほど気色の悪かというふうじゃなくて、もう本当に心賑やかに有難く送らせて頂けれる。
 「親先生が言わば、納まるところに納まってなかった洋服ダンスの中に、言うならばしも込んで下さる。納めるところに納めて下さった。あの世この世を、言うならば、迷うておった魂をです。親先生がそこへ、納まるところへ納めて下さった。それは納めるところへ納めたのですから、言うなら監獄に入れたようなもんですから、これはいよいよまた助かられるようなおかげを頂かなきゃならない」と言うてまあ申したことでございますけれどもね。
 そういうことからね、近所の方、特にバスの停留所、毎朝ここへ参ってくる。で、かく合楽の金光様ちゃ大したことですね。もうあの村うちはとてもよい村、けどその家が一軒あるためにです。もう気持ちの悪い村ということになっておったのがです。あなた方が見えてから、賑やかになって、夜は赤々と電気がついて、もう本当に近所の者も大変喜んでおると、合楽の金光様ちゃ大した金光様ですね」と言うて、その、いわゆる合楽の金光様の御比礼にまでそういうことになってきた。
 まあそういうようなことから、押しつけて言うわけじゃないけれども、確かに魂の世界はあるということです。それは例えば、私、久留米の総代さんの池本さんという総代さんが昔おられました。その方が、体験発表される時に、写真の中に息子の幽霊の写真が写っておるのを見せながら、「霊魂不滅」ということを話されたことを記憶しております。それはもうたくさんあります。科学的にもそういうようなことが出来るような時代なんです。
 けれども、助けるということはね、出来ないです。これはやはり金光大神の御徳、御取次によらなければ出来ない。私共が、助かって行けるように、やはり魂も助かって行く。御霊も助かって行けれる道があるのです。【    】ほんなこつ、あん時に本気で魂を清めときゃ良かったで、あちらへ行ってからじゃ遅かです。(笑) そりゃ我情我欲などはないけれども、その我情我欲を取り払わして頂けれるそういう生き方を、私は神様任せの生き方だと思うです
。右が良いと思うても、神様が「左」とおっしゃるなら、左を「はい」と取らして頂くところに、我情もなければ、我欲もないということになってくる。しかもその我情我欲を外すということが、このようにも楽なもんであるということを体験させて頂くことが出来る。
 そこからです。いよいよわが心を、言うなら確認する。自分の心を確認する。心の言わば、実態というものだ。というものがです。私はそれを取り出して見せるわけには参りませんけれども、その心がそのまま姿に現われてくるのだ、形に現われてくるのだ。自分の周辺に起きてくる問題の中に、はっきり現われてくるのだ。というような頂き方をさせて頂いたらです。いわゆる行き詰まりのない生き方、そういう道を体得することが出来るのです。
 本気で一つ、行き詰まりのない、いわゆる、「平和奈心」と佐藤先生が頂いたような、「平和奈心」を目指さして頂いて、しかもその心をです。自分の周辺に広げて行かなければならん。
 その二十五日の研修会の時に、そのことを発表した方が言ってました。親先生が、世界に和賀心時代を創ると言うておられるが、もう二十五年後にこういうことになって来るですから、早よう和賀心時代を世界に、言うならば、「和賀心」というものはこのようにも素晴らしいおかげの頂けれる心であるということを、示して行く。言うならば、楽にしよう、大きくしよう、大きく示して行かなければならない。そういう責任を持つ。お道の信心者・信奉者は感じなければいけない。二十五年後に破滅するかも判らない。それを破滅の寸前で救われる私は力を持ってるのは、教祖金光大神の信心を正面に受けて行く人達だと私は確信します。
 様々な、それは教えもありましょうけれどもです。「和賀心」を説かれたというのは、教祖ご一人です。人間のめぐりも言うならば、キリスト教辺りで言う罪なんかでも、和賀心の前には、それこそ霜に煮え湯をかけたようなものなんです。と言う程しに、功徳のあるのが和賀心なんです。その和賀心を目指さなければ、そして【 】のない生き方を本気で体得させて頂かなければ、せっかく御信心を頂いておる。いや金光様の御信心を頂いておる値打ちはないと思うのでございます。
 どうか一つおかげを頂いて、それは夢のような話と思わずに、例え夢のような話であってもいいじゃないですか。自分が魂が清まって、「和賀心」を段々手厚うなったり、そして自分の周辺に幸せの条件の全てが足ろうて来るようなおかげを頂ければいいでしょう。そういうおかげを目指して頂きたいと思います。
 いよいよ、二十四日は、久留米の記念祭が、大変なお祭らしいです。もう本当に、話を聞かせて頂いただけでも、本当に心が踊るような、いよいよ操作怠りないというようなご準備がね、段々進められております。合楽教会からもたくさんお参りさせて頂くように申込んでおりますから、どうぞ申込んで下さい。そして、来る二十四日にはです。おかげを頂いて、ご参拝のおかげを頂きたいと願わせて頂いております。
 信心はね、何と言うても、私は憧念心(どうねんしん)が出来なければならないと思うです。この頃からのご本部参拝でもね、もうとにかく若先生が「四十人ぐらいしか参られん。車がそれ位しかありません」「そんなことがあるもんか。あと四十人はどうするか。そんなことなら皆迷うぞ」と言うたら、そこに見えておりました坂本さんと言う方が丁度そこでテープを頂いておった。「車の話ですか。あの車の話なら私の方に、バスを何台も持っておるからお使い下さい」もう途端に四十人が出来た。だけではない。また二十人ばっか追加して、百数名の者がお参りが出来た。それは私が、ご本部へ対する憧念の心、憧れの念がそういうことにさせたんです。
 私共の、先達であるところの、久留米の初代の御信心を私共は本当に頂きたい。そして現わしたい。親先生に対するところの、言うならばご神恩の万分の一にでも報いたい。そういう憧念の心を燃やして、一つ今度の久留米の記念祭に、皆さんと【 】したいと思います。どうぞよろしくお願い致します。
有難うございました。